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松森城(鶴が城)

松森城は、鶴の翼の形をしていることから、別名「鶴が城」とも呼ばれています。 この城の様式は中世の山城で構成は本丸と二の丸となっています。主要な城主は国分氏と伊達氏でした。
公園として整備されている本丸跡(頂上の平場)には桜の木が数十本、南側斜面にも10本ほどあり、花見の名所となっています(以前はもっと多くの桜がありました)。
本丸のすぐ下は東の郭(馬場跡)で平場になっています。西側は山林ですが平場があり、二の丸跡と言われています。
本丸跡より東遠方を眺めると仙台湾が広がっていて、天気の良い日には、はっきりと船も見えます。
鶴が丘小学校の奥に見える県民の森の中には、一時期敵対し戦いも交えた留守氏の岩切城跡を見ることもできます。
南側にはスポパーク松森、七北田川、右手に市内の高層ビルや大年寺山のテレビ塔、その奥には県境の山並みまで見えます。身近で非常に眺望の良いスポットです。

(文・写真出典:鶴が森歴史愛好会

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熊野神社

熊野神社は、七北田村一村鎮守の神社です。 氏子は春秋の祭典や正月詣、6月30日、12月31日の大祓いの行事の際に、家内安全、無病息災、五穀豊穣を祈願します。 また、昭和40年ごろより、年2回、熊野講が熊野神社周辺の人々13人で営まれています。 講とは信仰を同じくする人が結んで集まるもので、当番にあたる方を手方(てかた)と呼び、一番方から二番、三番に分かれてお世話をします。 手方になった家で料理膳を作り掛軸を掛け、お灯明、酒などを用意します。

神官によって祝詞(のりと)があげられ、講員は家内安全、無病息災、五穀豊穣を祈願した後、直会(なおらい)を開いて膳をかこみ懇親会を行っています。

☆春になると、境内のしだれ桜が大変きれいです。ぜひ訪れてみてください。

薬師神社

松森内町の岩崎屋敷に祀られていたお薬師さんを明治12年に薬師神社と改めました。 お薬師さんの本尊、木仏立像(一尺二寸)と日光菩薩、月光菩薩が祭られています。 大正4年、県や村の神社合祀の推めで熊野神社に合祀されましたが、その年町内一帯に悪い病気が流行したため、本尊をもとへ奉還したと伝えられています。 お薬師さんへは、大病の快復を祈願して、お百度参りをしました。 町内に長患いの病人がでると、人びとでお薬師さんの長い石段の上り下りを百回繰り返して、早い快復を祈願したそうです。

斎藤産土美術館

館長の斉藤良平さんが戦後、農業の傍ら描き続けた数百点の油絵が展示されています。中でも圧巻なのは横22m,縦3mの大壁画に四季の農作業の模様が描かれた作品です。
(編集中…)

(写真出典:NOSAIみやぎ中央)

岩切城

岩切城は高森城とも呼ばれています。高森山の標高106Mに位置し、東西700M、南北400Mの広さを持ち、自然の地形を生かした中世の山城の典型です。 構築時期は不明ですが奥州合戦後、陸奥国留守職に任命された伊沢家景を祖とする留守氏の居城となっています。
松森城の城主である国分氏とは敵対関係にあり、幾度となく侵攻に遭って苦しめられていたので、対抗するための防衛施設も構築されていました。後に留守氏は伊達氏の傘下に属しますが城主政景が利府城へ居城を移したことで、元亀年間(1570~73)岩切城は廃城となりました。
その後、陸軍の演習場や小学校の運動場などに使われるも城跡としての原型は保たれ、公園として整備されつつも遺構(建築の残存)が各所に見られます。1982年(昭和57年)岩切城跡は国の史跡に指定されました。
山頂一帯に桜の木があり、仙台では有名な花見の名所となっていて、毎年見事な景観を楽しむことができます。紅葉の時期には綺麗なモミジを見ることもできます。また、眺望も素晴らしく、仙台市街や、蔵王連峰、太平洋を望むことができます。

※東日本大震災で崖崩れが発生して工事中のため、しばらく立ち入ることができませんでしたが、現在整備が完了して入場できるようになったとのことです。これでまたお花見もできるようになりますね。

(参考文献:岩切歴史探訪の会 提供資料)